何をいまさらってな話だけれども、ときどき思うのだ。
ちょっとは人生に慣れてきてるじゃないかと。
何か問題を解決しようとするときには、時間の経過を計算にいれるとか、それは自分の頭の中だけで起きていることじゃないかと自分をいさめるとか、他人に期待しないとか、報われるなんてそもそも考えないとか、そういったすでに習慣づいてる多くの行動パターンがある。
それらが誰にとっても有効なものだとは限らないけれども、個人的な性質も掛け合わせたときに、もっとも有効と思われるもの、実績のあるものが手持ちとして残っている。つまり、なるべくしてこういう考え方になっている。
一言ではパーソナリティということなんだろうけれども、そんな特徴を意識したりしなかったりしながら生きている。いくつかの行動傾向のパターンが連動したり、あるときはいずれかが発動しなかったりするような、そんなテキトーさでもって日々を生きている。
全体として体系化はしていないが、部分的には体系化されているものもある。ときにはこういうことを言語化したり、見直したり、誰かに伝えたりしたほうがいいのだろうなあと思う。
やっぱり、ちょっとずつ人生に慣れてきているのだろう。
慣れてきて、全体最適で考えるようになって、まわりもそういう人が増えてきて、というような人生のフェーズにいるわけだけれども、全体最適の「全体」をどの範囲に設定するのかという考え方の違いが、人と人のコミュニケーションにおいてとても地味に、でも決定的に影響しているのだろうなあ、とかなんとか考えながら、今日もまたごくちょっとずつ人生に慣れていくのだよね。
2009年10月29日木曜日
2009年10月22日木曜日
妖精として余生を過ごす節
友人TMが、自分のキャラを妖精よりにスライドするという。太古の人間は三十数年しか生きられなかったという話をどこかで聞いたのが話のはじまりらしいのだが、妖精と寿命にどのような関係があるのか少し説明が必要だろう。すでに三十数歳の彼はちょっと前に生死をさまようような病で入院した。それを振り返り、もうあのとき自分は一度死んだのだと。だから、これから先はなかったはずの余生。自己にそんなにとらわれる必要もない。「妖精」としてキャッキャと笑いながら余生を過ごすのだ。と、うれしそうに話す彼はとびきりの激情型。その妖精像がはたしてどうなのかという問題はさておき、彼が彼自身とうまく折り合いをつけるポイントが見つかったのなら、それはとてもすばらしいことだと思うのだ。
2009年10月20日火曜日
コンビニ店員の接客態度がすばらしすぎて。
日本人に感心するのは、安い給料で働くコンビニ店員の丁寧な接客に触れたとき。
今日立ち寄ったコンビにの店員もすばらしかった。これを本人に伝えたところで、普段通りにやっているだけです、と答えるだろう。
外国人のコンビニ店員が増えている中で、その丁寧さがより目立つ。しかし、そこに現れている誠実さをよいとか悪いとかいう価値基準で見るのではなく、単に日本人の特徴として捉えておくことも大切だろう。
その特徴を、「役割を演じることに対して忠実である」とするとき、それは国内外の社会における日本人の振る舞いにどのようなものとして現れるだろうか。
今日立ち寄ったコンビにの店員もすばらしかった。これを本人に伝えたところで、普段通りにやっているだけです、と答えるだろう。
外国人のコンビニ店員が増えている中で、その丁寧さがより目立つ。しかし、そこに現れている誠実さをよいとか悪いとかいう価値基準で見るのではなく、単に日本人の特徴として捉えておくことも大切だろう。
その特徴を、「役割を演じることに対して忠実である」とするとき、それは国内外の社会における日本人の振る舞いにどのようなものとして現れるだろうか。
2009年10月9日金曜日
自立について考える。
自立って何なのかというエントリを読んだ。
自立|さつませんだい徒然草
自立って何だ|おのけんのーと
今まで自立についてまともに考えたことなんてあっただろうか。うーん、ないな・・・。たぶん「いろんな意味で独り立ち」ということ以上を考えたことがない。「いろんな意味で」の中身を考えてみればいいのだろうということで、ひとまず、親元を離れて何がなくなるかを考えてみることにする。
自立に必要なこと
親元を離れると何がなくなるか。生活費がなくなり、家事をしなくてはならなくなり、おかえりを言ってくれる人がいなくなり、人生を左右する大きな決断を自分でしたり、自分だけでは解決困難な場合は適切な相談相手を見つけてきたりしないといけない。 つまり、生きるためにおよそ必要な有形無形の物事を自力で調達できるようになること。とりあえずは、それが自立した状態だと言えるだろう。
しかしこれだと、一般化しただけでつまらないから、もうちょっと考えを深めてみよう。上記のような状態になるためには、世の中を知り、自分の心の声をよく聞けるようにならなくてはならない。自己の外部と内部についてよく知らなければならないのだ。外部と内部の何を知ればいいのかというと、必要なものと不必要なものだろう。
要・不要
社会と自分の間にいろいろなものが挟まっていて、仮にそれは大小の輪が自分を幾重にも取り巻いている状態のようなものだとしてみよう。「社会における業界」「業界における会社」「会社における自分」「コミュニティにおける自分」「家庭における自分」。大きな円の中での小さな円が存在価値を維持するためには、何があまっていて何が足りないかを知っていると同心円でいられるというか、安定した状態でいられる。そして外であまっているものと足りないものに、自分の中のあまっているものと足りないものを照らし合わせ、自身の労働や振る舞いを誰かに差し出していくことになる。
つまり自立とは、「自分の中の要・不要と、社会や周囲にとっての自分という存在の要・不要がつりあうポイントを探しあてた状態」といえるのかもしれない。つりあっていなくてもなんとか生きていけるだろうけれども、どこかで無理が生じるだろうから、できれば持続可能なポイントを探すのがよいのだろう。また、役割という視点から言えば、自立するとは「自分の役割を自ら定めること」であると言い換えられるようにも思う。
個人が自立すると何がうれしいのか
個々の役割が安定すると、ひとまず“世間”が安定する。つまり、周囲の人は安心していられる環境を得る。このような状態ではないとき、人は他人に対して「やめてよねー」と思う。行動が不安定な人から被る不利益を防ごうとするし、それらが自分の自由を脅かすのを嫌う。逆に自立という免罪符を得れば自身が不安定な存在として批判されるような不快な状態にはならないし、自身の安心な状態が正当なものであることを主張できる。 人が自立を志し、また社会がそれを人に求めるのは、そういった不安からの逃れと、自由への渇望を背景にしているのだろう。
自立|さつませんだい徒然草
自立って何だ|おのけんのーと
今まで自立についてまともに考えたことなんてあっただろうか。うーん、ないな・・・。たぶん「いろんな意味で独り立ち」ということ以上を考えたことがない。「いろんな意味で」の中身を考えてみればいいのだろうということで、ひとまず、親元を離れて何がなくなるかを考えてみることにする。
自立に必要なこと
親元を離れると何がなくなるか。生活費がなくなり、家事をしなくてはならなくなり、おかえりを言ってくれる人がいなくなり、人生を左右する大きな決断を自分でしたり、自分だけでは解決困難な場合は適切な相談相手を見つけてきたりしないといけない。 つまり、生きるためにおよそ必要な有形無形の物事を自力で調達できるようになること。とりあえずは、それが自立した状態だと言えるだろう。
しかしこれだと、一般化しただけでつまらないから、もうちょっと考えを深めてみよう。上記のような状態になるためには、世の中を知り、自分の心の声をよく聞けるようにならなくてはならない。自己の外部と内部についてよく知らなければならないのだ。外部と内部の何を知ればいいのかというと、必要なものと不必要なものだろう。
要・不要
社会と自分の間にいろいろなものが挟まっていて、仮にそれは大小の輪が自分を幾重にも取り巻いている状態のようなものだとしてみよう。「社会における業界」「業界における会社」「会社における自分」「コミュニティにおける自分」「家庭における自分」。大きな円の中での小さな円が存在価値を維持するためには、何があまっていて何が足りないかを知っていると同心円でいられるというか、安定した状態でいられる。そして外であまっているものと足りないものに、自分の中のあまっているものと足りないものを照らし合わせ、自身の労働や振る舞いを誰かに差し出していくことになる。
つまり自立とは、「自分の中の要・不要と、社会や周囲にとっての自分という存在の要・不要がつりあうポイントを探しあてた状態」といえるのかもしれない。つりあっていなくてもなんとか生きていけるだろうけれども、どこかで無理が生じるだろうから、できれば持続可能なポイントを探すのがよいのだろう。また、役割という視点から言えば、自立するとは「自分の役割を自ら定めること」であると言い換えられるようにも思う。
個人が自立すると何がうれしいのか
個々の役割が安定すると、ひとまず“世間”が安定する。つまり、周囲の人は安心していられる環境を得る。このような状態ではないとき、人は他人に対して「やめてよねー」と思う。行動が不安定な人から被る不利益を防ごうとするし、それらが自分の自由を脅かすのを嫌う。逆に自立という免罪符を得れば自身が不安定な存在として批判されるような不快な状態にはならないし、自身の安心な状態が正当なものであることを主張できる。 人が自立を志し、また社会がそれを人に求めるのは、そういった不安からの逃れと、自由への渇望を背景にしているのだろう。
2009年10月7日水曜日
2009年10月5日月曜日
おいしい食卓講座
生まれて初めて、ちゃんちゃん焼きを食べた。Cjが作ってくれて4人でつついた。おいしいものを仲間と食らう、飲む、笑う、そういうのは何にも変えられない楽しさがある。昔からの遊び仲間に料理が得意な連中がいたので、以前はよく誰かの家に集まって手料理を囲んだものだった。そいつらが遠方に引っ越してしまってからは、そういった場が少なくなってしまっていた。今は違う。誰よりもそういう場が好きであろうCjがいて、フットワーク軽く集まる仲間がいる。食卓で何を囲むかではなく、誰と囲むか。そこありきなのだよなあと思う。おいしく食べてほしいと思う人とおいしく食べたいと思う人が集まったら、おいしい食卓にならないわけがない。
2009年10月4日日曜日
自己演出に抵抗を感じる人のための表現講座
ここに告白しておきますと、個人ブランディング、セルフプロデュース、自己演出などなど、まあ呼び方はなんでもよいのですけれども、恣意性の露出が気持ち悪かったり、謙虚さとの相性がイマイチだったり、この括りにおける語りの雰囲気に違和感を感じたりと、なんだか乗れない自分がいるのです。
それはこれまでの生き方、環境、出会い等々に影響されてできた感覚なのでありまして、これによって得ているものもあるでしょうから、そちらは見失わないようにしつつも、一方で自分の考え方は普遍というわけでもありませんから、いわゆる聞く耳は持つわけです。
ある日、ひさしぶりに会ったAさんが、ダメだしのような励ましのようなやさしい口調で私に言いました。
「おまえもそろそろ自分に光をあててあげないと」
この表現はなぜか私の心に刺さったのでありまして、それは表現自体に慎ましやかさのようなものを感じたからなのか、Aさんの人生の苦労を知っていて、腐らずストイックに生きている彼の言葉だったからこそ私は感じ入ったのか、どちらとも知れないですし、またどちらともそろっていてこそのことだったのかもしれません。
ただ、同じことを語られるにしても、それを口にする人が誰であるか、どのような方向性で選ばれた言葉なのかによって、人の印象というのは大きく左右されるものですね。
なぜ刺さったかということに関して大事なことは、発言者が“言うにふさわしい誰か”であるように日々を生きていることと、それが受け手に伝わっていること。そして、受け手の性格や状況に合った表現を選んで伝わりやすい言葉で伝えること、ということになりましょう。(言うのはとてもかんたんですね)
だから、表現自体が慎ましやかさを含んでいたことは一つの要素にすぎないのであって、自己演出に抵抗を感じる人がパッとしない現状を変えることについて本質的な解決を目指すのなら、「誰の声を聞くか」ということについてもっと注意を向けたほうが、自分を納得させられる確率は高くなるのだろうと思います。
とてもよい授業でした。
それはこれまでの生き方、環境、出会い等々に影響されてできた感覚なのでありまして、これによって得ているものもあるでしょうから、そちらは見失わないようにしつつも、一方で自分の考え方は普遍というわけでもありませんから、いわゆる聞く耳は持つわけです。
ある日、ひさしぶりに会ったAさんが、ダメだしのような励ましのようなやさしい口調で私に言いました。
「おまえもそろそろ自分に光をあててあげないと」
この表現はなぜか私の心に刺さったのでありまして、それは表現自体に慎ましやかさのようなものを感じたからなのか、Aさんの人生の苦労を知っていて、腐らずストイックに生きている彼の言葉だったからこそ私は感じ入ったのか、どちらとも知れないですし、またどちらともそろっていてこそのことだったのかもしれません。
ただ、同じことを語られるにしても、それを口にする人が誰であるか、どのような方向性で選ばれた言葉なのかによって、人の印象というのは大きく左右されるものですね。
なぜ刺さったかということに関して大事なことは、発言者が“言うにふさわしい誰か”であるように日々を生きていることと、それが受け手に伝わっていること。そして、受け手の性格や状況に合った表現を選んで伝わりやすい言葉で伝えること、ということになりましょう。(言うのはとてもかんたんですね)
だから、表現自体が慎ましやかさを含んでいたことは一つの要素にすぎないのであって、自己演出に抵抗を感じる人がパッとしない現状を変えることについて本質的な解決を目指すのなら、「誰の声を聞くか」ということについてもっと注意を向けたほうが、自分を納得させられる確率は高くなるのだろうと思います。
とてもよい授業でした。
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